弥生3月

「弥生来にけり、如月は 風もろともに、けふ去りぬ (「燕の歌」上田 敏訳 朝日新聞天声人語より)」春を待つ身にはあまり好まれない2月が過ぎ去って、待ち望んだ弥生の3月が始まった。急に気温が上がり、羽織ったコートがやたらと重く、邪魔者に思えてくる。陽の光が確実に変わったことに気づく。
夫がゴルフでマイカーに乗って出かけた日、仕方ないのでバスと地下鉄とを乗り継いで移動した日。久しぶりにのんびりと車窓を通り過ぎる景色を眺め、地下鉄の座席ではスマホ人口の急激な増加をこの目で検証する。たまにはいいな。しかし青空が少し霞んでいる。それってまさかのPM2.5??隣国の公害が押し寄せる今年の春。一体どんな風に向かい闘えばいいのか?

母に会いに行った別府で、ついでながら開催されていた「別府八湯 日韓次世代映画祭」に行った。会場は別府中央公民館。この公民館は昭和3年(1928年)に竣工したというから、昭和2年の母と同じくらいの歳。星月夜のステンドグラスやキューピットが立つ手洗いなど、当時のまま残っている、別府市有形文化財に指定されている歴史深い建物である。このホールで開催された映画祭でその日上映された映画は、日本初公開の「Jesus Hospital (原題 ミンクコート)」。2011年のソウル独立映画祭で大賞を受賞した他、釜山国際映画祭でも2部門で受賞した話題作品で、キリスト教信者と安楽死というかなり重いテーマを扱っていて、韓国でも論議を呼んだ作品であるという。
最初からかなり異常な?カメラアングルと進行にかなり戸惑いながら、いったいどこに連れて行かれるのだろう?というドキドキ感も伴って画面に釘付けになる。で、ドアップの主人公ヒョンス(ファン・ジョンミン)の姿に度肝を抜かれる?!「え〜!この人が主役?本当に女優?」しかしこの女優ファン・ジョンミンの迫真の演技がこの映画の主軸となっていく。
「老婆は8ヵ月間、意識を失ったまま入院している。医師は生存率が1%もないと診断する。敬虔なプロテスタントの姉と弟は、母の延命治療を中止することを決断する。しかし異端の宗派に陥った次女ヒョンスは母の酸素呼吸器を守ろうとする。(映画祭パンフレットより)」
延命治療について、韓国でも大きな社会問題になっていて、延命治療の停止を求めた家族と、応じない医師の間で裁判に至った例もあり、結局家族は裁判で勝訴し延命装置を外すことになったが、結局その患者は呼吸器なしで半年近く生きたという事例があったという。(上映後の監督の話より)尊厳死について観るもの一人一人に問いかけながら、宗教とは、家族とは・・・実にたくさんの本質に迫り、ゆさぶり、気づきへと誘っていく。いつの間にか見ている誰もがヒョンスになり、悩み、叫び、やがて救われていく。
病院の屋上で耐えきれない今を神に答えを求めて号泣するシーン。相変わらず神は答えをくれず、でも遠くで教会の鐘が聞こえ、天からは真っ白な雪が舞い降りてくる。流れる涙が全てを洗い流していく。舞い落ちる真っ白な雪が全ての罪を清めてくれる。象徴的な救いのシーンだった。

強烈な引力に?!ぐいぐい惹きこまれ、見終わった後、託された命題の重さに押しつぶされそうになった。でもきっとヒョンスと同じく命の希望を両手で掴み歩き始めるのだろう。人間は思う以上にしたたかな存在らしい。
いい作品だった。上映後シナリオを書かれたシン・アカ監督と共同演出したイ・サンチョル監督を囲んでの質疑応答もとても興味深かった。若い二人の監督のこれからを大いに期待したい。
こんな素晴らしい映画祭なのに、参加されてる人が少なくてそれが本当に残念に思った。福岡であるアジア国際映画祭はいつもかなりの人で賑わうのだが。文化的土壌が地方都市ではなかなか育たないのかなぁと思ったり。

今日は桃の節句、お雛祭りの日。朝から電車に乗ってハウステンボスに行き、尊敬する先輩ヨーガ療法士、脇田久子先生のワークショップを受けた。教える立場から学ぶ立場へ。だからこそいっぱいの気づきがある。自分の今を見つめなおし、反省し、気づきいっぱいの学びの1日だった。
帰りの電車で過ぎ去ってしまったひな祭りの日々を思い出していた。小さなお雛様を飾り、いつも決まってちらし寿司を作ってくれた母。季節の祭事やお誕生日やクリスマスやいつも家族で過ごす時間を大切にしてくれた母だった。だから私も結婚して家族を持った時から、母にしてもらったように過ごしてきた。「灯りをつけましょぼんぼりに・・・♪」と子供たちと一緒に歌ったひな祭りの宵を思い出していた。母から受け取ったバトンがこの子達にちゃんと渡せたかな?と思いながら。
長い眠りの時から解き放たれて、開花の時を迎える。「人間の体は本来、自然の一部であるから、その声に耳を澄ませることで、脳は自己増殖的な思考の働きを止めて、自然と調和した状態にかえることができるのであろう(熊野 宏昭 早稲田大教授)」
私は、そうこの大いなる自然の一部なんだ。どれだけ我執を捨て、謙虚に自然に学び、自然の一部となって生きていけるか?問いかける日々は変わりなく続く。今週も一歩一歩。