ガンゴトリーからウッタルカシへ 帰路の旅 No1

ウッタルカシへ向かう途中、というかガンゴトリーを発って30分ほどの所でバスを降り、トイレ休憩(野原での御用達)後、歩いてモンゴル村へ向かう。事前の説明もなくいきなりのモンゴル村に戸惑いつつ、撮影不可のインド軍重要地域を通り、やがてインドからモンゴルへ世界が変わっていく。

1962年の中印戦争で、難民となった人たちにを、インド政府が土地を与え支援している。一時はダライラマもこの村に避難していたという。あれからもう50年近い時間が過ぎ去ったけれど、この村の日々は変わらない。

インド政府は彼らに一家族、一か月25kgの米を与え、耕作する畑を与え、手厚い援助を続けている。女たちは羊毛を紬ぎ、セーターや靴下を編み、麓の村で売って、それが唯一の現金収入になるという。私も前回のインド訪問で彼らの編んだセーターや帽子を買ったことがある。

ここはどこ?といきなりのモンゴル世界の戸惑いつつ、カメラを向けても変わらない優しい眼差しで受け入れてくれる姿に心癒される。同じモンゴリアンだからかな。

冬場は2m近い雪が降るので、暖かいウッタルカシへ移住するという。生まれ育った場所を離れ、異郷で生きる今。望郷の念はないのか?親しみを感じる風貌の奥に、優しい笑顔の奥に問いかける。

村へ続く橋の上に、色とりどりの小旗が風にハタハタと揺れていた。きっと空の向こうに故郷の空を想っているのだろう。与えられた場所で今を懸命に生きる。ただそれだけ。そう歌っているように聞こえた。

インド旅途中ながら、明日から火曜日まで別府のリハビリー病院に転院した母の所へ通う。インドで貰ったパワーを懸命に母に送りながら、気持ち切り替え頑張ろう!そう思っている。

キャンプ地ボジバサからガンゴトリーへ 

5月24日、タポバン行きがなくなったので、予定より一日早くガンゴトリーへ降りることになる。早朝5時半起床。荷物を再びまとめ、テントの外に出す。ゴームクの石や砂やガンガの水や、一層重くなった荷物を運んでくれるシェルパさんたちに、「重くなってごめんね」と心の中で謝りながら。帰りは徒歩でと準備していたら、朝食後「二宮さんは馬に乗って下さい。」と、言われた。「いえ、帰りは徒歩で大丈夫です」と訴えたけれども却下される。え〜!もう馬はこりごりなのに。

仕方なく荷物から毛布を出し、徒歩組を送り出し、上の乗り場?で待つ。来ない!待つこと2時間。インド時間とはいえ、2時間はひどくない!!怒りつつやっとやってきた馬に乗る。行きのやや賢そうな馬ちゃんに比べ、今度のは正体不明。中々呼吸が合わない。しかも急な下りが続く。右手は手綱を握り、左手は馬の鞍の後ろを持ち、体を反らせ、必死でバランスを取る。陽射しが眩しく暑い。手綱を掴んでいる右手に異常に力が入っていることに気づき、リラックス!と自分に言い聞かせる。1時間もしない内に、尾骶骨近くに痛みを感じ始める。いかん!お尻が・・・火事!?

唯一の休憩地、チルバサに到着するもすでに徒歩組は全員通過した後。お昼のお弁当、梅干しお握り2個と茹でたじゃが芋2個を食べ、到着した宏輝先生(医師)にお尻の事情を相談?する。馬組仲間?に、鞍の上に敷いていた毛布で四方を囲ってもらい先生の診察を受ける。「二宮さん、これはひどい。皮一枚剥けてます。応急処置をしておきますから、今夜もう一度診ますので。」と、言われ絆創膏?を貼られた。「はぁ・・・皮剥けてますか・・・」でもまだ馬には乗らんと降りれんし。

剥けていると言われたら一層痛みが増した。更に2時間近く、出来るだけお尻を浮かせ、でもかなり無理で、来た時より一層の苦痛と緊張でいっぱいいっぱいのまま、やっとやっとガンゴトリーが近くなった時、実は泣きたいくらいほっとした。丁度そんな時だった。ガンゴトリーまで後20分位のなだらかな下り坂で、額から血を出して横たわっている仲間の姿に遭遇する。「落馬したみたい」・・・動揺する私たちはそのまま下山するように指示を受ける。幸い近くにいた徒歩組の木村先生や仲間たちがすぐに宏輝先生に連絡し、下山後、車でデリーの病院まで運んだという。運転手は24時間一睡もせず運転をしたという。もしももっと険しい崖が続く道だったら、木村先生や宏輝先生が近くにいなかったら、そう思っただけでぞっとした。両手首を骨折していることが解り、日本で手術を受けるため翌日の便で帰国した。

危険と隣り合わせの旅であったことを改めて知らされた。やっと下山した夜は、ガンゴトリーのホテルで久しぶりに水で体と髪を洗った。お湯は出ない。電気は夜の2時間位しかつかない。でもテントでの日々に比べたら、まるで天国?!のよう。宏輝先生はデリーに行ってしまったので、お尻の付け替えはなし。なーに、剥けた皮はきっと再生する!そう信じて久しぶりのベットで眠る。昨日までのテント生活が嘘のように、夜遅くまでガンゴトリーの繁華街?にあるホテル周辺は賑わっていた。

翌日の5月25日はニケタンで早朝瞑想からラージャヨーガ修行、旅の安全を感謝しての「アグニホートラ」など、一日ガンゴトリーで修業の一日を過ごす。お尻は仲間の看護師さんに、恥ずかしながらの尻見せ?!で治療していただく。感謝!!ガンゴトリー最後の夜、ガンガに座し瞑想をする。対岸からマントラが聞こえる。4年前にこの地を訪れた時も同じようなマントラが聞こえていた。同じ場所で座す。あの時より更に深い思いに満たされている今を感じながら、座している今を心から幸せだと思った。この瞬間も一生忘れない。
翌朝、5月26日8時、帰りも同じ2号車に乗り、ガンゴトリーにお別れを言い、ウッタルカシへ向かった。帰路の旅が始まる。修行の旅はまだまだ続く。

いよいよゴームクへ

5月23日木曜日、4時半に起床し、6時半にお粥と味噌汁の朝食。出来ればと願っていた「タポバン」行はやはり氷河の状態が良くなくて危険を伴うので中止することとなり、全員一緒にゴームクまで行くことになる。8時前出発!ゴームク(3,892m)までは片道約3km。キャンプ地「ボジバサ(3,790m)」から更に高度が上がっていく。

路は石がごろごろと歩きにくい。平坦な道に来るとほっとする。すぐに汗ばんで来て、喉が渇く。何度も立ち止まり水分補給する。

シバリンガ山(6,543m)が臨める場所で休憩。すっとそびえ立つ姿に思わず手を合わせ祈る。

上り坂になると息が切れる。はぁはぁと呼吸が速くなる。空気が薄い。血中酸素濃度が下がる〜!!何度も深呼吸する。

空が真っ青に輝いている。最高のお天気!こんな綺麗な空を見たのは生まれて初めてだわ!と、何度も見とれる。

しかしその分紫外線が強い。鼻を火傷してまっ赤になってしまった人が何人もいた。私はいっぱいクリームやらなんやら付けてガード完備。先を歩く仲間が岩と同じくらい小さく見える。まだまだ歩かなくては!

こんなところにもサドゥがいた。鐘を鳴らして祈る。ドネーションの箱があり、10ルピー入れる。結構儲かる?

もう少しでゴームク!こころが逸る。一層息が上がる。

じゃ〜ん!!ついについにゴームク到着!!どれぐらい歩いたのか時間を確認し忘れたが、休憩をいっぱいして、多分2時間半近くかかったか。ゴームク、牛の口の形をした氷河の穴?からガンガが生まれている。灰色のガンガの流れに氷片が混ざってきらりと光る。やっとここにたどり着いたという安堵感がこみあげてくる。感動で叫びだしたい思いを抱え、夢見た場所に今、やっと私は立っている、今をしっかりと抱きしめる。
氷片の混ざる生まれたばかりのガンガの水で沐浴をする。木村先生の手で頭からしっかりと清められていく。合掌をした手に力を込め、冷たいガンガの水を全身が受け止めていく。

木村先生の誘導で、全員河原に座して瞑想する。閉じた瞼の裏に、牛の口から湧き出すガンガが見える。すべてはここから始まる。そのエネルギーをみんなに送りたくて、私の家族や友人や、公民館の生徒さんや、スタジオの会員さんや、一人一人の顔を思い浮かべ、今、この瞬間の想いを、エネルギーを送り続けた。全てに支えられ今の私がある。感謝の思いが溢れ、胸一杯に広がっていった。深い瞑想から目覚めた時、この場所にいる今の幸せが再びこみあげてきた。この瞬間をきっと私は死ぬまで忘れないだろう。そう改めて思った。
みんなで梅干し入りのお握り2個とボイルしたじゃが芋2個のお昼を食べ、河原の石や砂?を拾ったり、記念写真を撮ったり、思い思いに時を過ごし、憧れのゴームクを後に、キャンプ地へ戻って行った。

さっき来た道を帰る。下りは上りの半分くらいの時間。どんどん遠くなっていくゴームクに後ろ髪を惹かれながら、行けなかったタポバンへの想いを抱えたまま、キャンプ地へ戻った。その夜は疲れ切って爆睡。翌日は1日早くガンゴトリーへ戻ることになる。修行の旅はまだまだ続く。

キャンプ地ボジバサへ

5月21日(火)4時半起床、キャンプ地へ持って行く荷物をドアの外に出し、ニケタンで朝食を済ませ、8時、キャンプ地ボジバサ(標高3,850m)へ向かって出発する。徒歩組に見送られ先に出発した馬組ながら、乗馬所で待つこと1時間。なぜか馬が来ない。予約していた馬方たちがどうもストライキをしているらしい。結局ガンゴトリー寺院の馬方に交渉してなんとか馬を出してもらえることになり、予定より1時間半遅れでやっと出発。インドだからなんでも1時間待ちはザラ!誰もがすんなりと受け入れる。インドライフに慣れていった証拠かな。

しかし馬に乗るのは生まれて初めて。しかもかなり厳しい山道を3時間近く馬の背に揺られることになる。2頭に一人の馬方が付く。しかし私の乗った馬ちゃんはお利口なのか?一人でさっさと歩き始める。一歩間違えば谷底へ・・・のぎりぎり道も、なぜか谷寄りを歩き、谷寄りの草を食べ、かなり急流の川では身を屈めて水を飲み、その度に馬上の私は生きた心地がしなく、神様にひたすら祈りつつ、「I trust you !」とインド馬ちゃんだから英語か!と考え、心の中で叫び続ける。

馬上から見えるのは馬ちゃんの首筋?だけ。と、いうか他を眺め見る余裕一切なし。登りは「頑張れ!」と声を掛けつつ姿勢を下げて一緒に登る。しかし下りは後ろへ反らした私の態勢が整わない内に走り始める。なんで今走るの?馬方がお尻をピシッと打ったからか。一緒に弾もうと頑張る。いやぁ、もう必死。こんなことなら歩き組にしてもらえば良かったと、何度も何度も後悔する。

唯一の茶店があるチルバサにお昼前やっと到着する。歩き組の先頭はすでに通過した後だった。お弁当(梅干しのお握り2個、ボイルしたじゃが芋2個)を食べてチル(松の木)の下で休む。トイレは下った岩の陰で済ませる。高地ゆえに少し上っただけで息が切れる。内腿が筋肉痛!膝ががくがくする。まだ後どれだけ馬に乗らなくてはならないのか・・・歩き組のしんどさを思いつつも、我が身勝手で不安いっぱい。

日除けの帽子の上に工事現場?!のヘルメットを被り馬上に!その滑稽な姿を笑いながらカメラに収める欧米人あり。笑えばいい!!と開き直る。怖いものは何もない。お馬ちゃん以外は。(このヘルメットのお蔭で帰路落馬した仲間が頭を守られたんです!!)

遥か前方に真っ白に光り輝くバギラッティ峰が見えた時、涙が溢れて止まらなくなった。「あぁ、あなたはここにいたんですね。」ずっと探していた私の神様が目の前に現れた気がした。感動に震えるこころを抱え、馬上で見上げた神々しいまでのバギラッティ峰。溢れる涙を拭いながら、この感動は一生忘れないだろうと強く強く思った。

午後3時前、やっとキャンプ地ボジバサに到着した。高山病で気分が悪くなった仲間を支えながらキャンプ地へ降りる。私たちがこのキャンプ地で過ごす荷物や食材や、調理器具はすべてシェルパたちが背負って運んでくれた。50kg以上の荷物を背負い、14kmの道のりを彼らはサンダル履きで3時間ほどで登ってしまう。中国との国境近い村からこの時期出稼ぎにくるという。中には14歳の少年もいた。そんな労苦をしても運ばなければいけない物があったのか?実は物に縛られている自分に問いかけ続けた路でもあった。

テント生活が始まる。高地に体を慣らしながら、聖地ゴームクへの最終章へ備える。日中は20度以上に気温が上がり、強烈な紫外線が降り注ぐも、日が暮れると一気に冷え込む。寝袋に包まり、寝返りも出来ない状態で、星が降り注ぐ夜を耐える。もうすぐゴームクへ。・・・・続く。

帰って来ました!

二週間のインドでの修行の旅から、5月31日(金)帰って来た。真夜中のデリー空港を飛び立ち、成田へは午後1時過ぎに到着するも、福岡への乗り継ぎ便は夕方で、結局我が家に帰り着いたのは20時過ぎ。2週間振りの我が家に感慨にふけっている暇もなく、夫の夕飯を準備し、洗濯機フル回転!結局寝たのは12時前。翌朝は普通に?起き、レッスンへ。時差ボケもなく、旅の疲れもなく、なんてことなくまたいつもの日常が始まった。

で、インド修行の旅。盛り沢山の感動あり!ゆえに、一体どこから始めたらいいのかと悩みつつ、聖地中の聖地、ガンゴトリーから始めることにする。5月17日の早朝(午前0時過ぎ)デリーに到着。インド初宿は、高級ホテル「タージパレス」。しかしわずか5時間弱の滞在!ゆっくり高級ホテルライフに浸る暇一切なく、早朝には聖地へ向かう車中人となる。デリーからリシケシへ。リシケシからウッタルカシへ。ウッタルカシからガンゴトリーへ。2か所での宿泊を挟み、聖地「ガンゴトリー」への車での移動は3日間続いた。

4年振りのガンゴトリーだった。4年前より何倍も巡礼者が増え、車が増え、その道のりは何度もギリギリ、ハラハラの連続だった。寝てればいいのに、眠れない。崖っぷちでの離合。私、何度も悲鳴を上げた迷惑な乗客でした。とにかく私たちを安全に運んでくれた素晴らしいドライバーに感謝しつつやっとやっと到着。巡礼者のためのホテルが増え、一層の賑わいを見せるガンゴトリー。ガンゴトリーとは「ガンジスが地上に現れる地」という意味。標高3,140m。ホテルへ向かう道。頭が重い。ちょっとの勾配にも息が切れた。ここから高山病との戦いが始まった。

翌日は丸1日、ガンゴトリーにあるヨーガニケタンのアシュラムでの早朝瞑想など修行をこなしつつ、ゆっくりと高地に慣れていく。少しずつ頭痛が収まっていく。快晴の昼間、ガンジス川で沐浴する人たちがいて、その向こうには真っ青な空があり、ヒマラヤの山々が眩しいほどに光り輝いていた。もうすぐその麓に行く。

ニケタン近くにある滝は、5年前にこの滝で早朝瞑想をした懐かしい場所。乾季ゆえに水量は少なくなっていたが、もうすぐこの滝の源に行くのだという思いで見つめる。同じ場所なのにその思いでこんなにも景色が変わるのだということに改めて気づく。そのどれもに私がいる。
翌朝、集合したニケタンでゴームクへ向かうキャンプ地「ボジバサ」へは馬で向かう組になったことが知らされる。できれば徒歩でと願ったけれど、インドへ入って以来悪化した膝を抱え、馬組へとなったことに従うしかない。
いよいよ憧れの聖地へ長くて辛い道が始まる。やっと始まる。全てはこれから・・・・続く。

5月も半分過ぎ去って

宮崎での学会報告からすでに2週間近くが過ぎ去ってしまった。ますます日々が加速して過ぎ去っていく。連休後半の4連休の二日間は、毎年ながら母の住む村でお茶摘みをした。ただ今年は初めて母のいないお茶摘みだった。来年はもう積めんかもしれん・・・そう去年のお茶摘みで言ってたことが現実になった。すっかり体調を崩し、姉の住む別府の病院に入院している母。

鍵を開けて母がいない家に入る。それも初めてのこと。すぐに野良着に着替え夫と二人茶葉に向かう。お昼には弟夫婦も帰って来る。青空の下、茶葉の新緑が眩いほどにきらきらと光る。光る新緑の茶葉をひたすら摘む。限りなく単調で根気のいる作業だ。鶯が鳴く。前ん川のせせらぎの音が聞こえる。自然に抱かれ、その恵みをこの手が摘んでいく。自然の懐にすっぽりと包まれ、癒された2日間だった。摘んだ茶葉はこの時期限定の茶工場に持って行って加工してもらう。加工賃を払ったら、お茶買った方が安いかも!なのだけれど。

連休後半は別府で入院をしている母と過ごした。姉んちに泊まりつつ、日中はすっかり動けなくなり弱ってしまった母にかなり心塞ぎつつも、なんとか気力を振り絞り向かい合った。肺の水が引かない。腰の痛みが消えない。いっぱいいっぱいしんどいことがある母。見ているだけで辛くなる思いを懸命に奮い立たせる。結構しんどい2日間だった。帰りの電車では乗った瞬間から爆睡。母はもっと辛い。
そして1週間後の母の日はそんな母に会いたくて車を飛ばして別府に行った。1週間前よりももっと小さくなって、か細くなった母がいた。少し辛い母の日だった。

そんな母を置いて、明後日から4年ぶりにインドに行く。4年前に行った聖地ガンゴトリー(3,000m)から歩いて山を登り、ガンジス川の源、ゴームク(3,900m)へ。更にタポバン(4,460m)へも足を延ばす。ヨーガ行者が修業の場として目指した地へ、そしてなんといってもガンガ(ガンジス川)が生まれる源へ行く念願の修行の旅。40度のデリーから二日かけて10度以下のガンゴトリーへ移動の旅故荷物もいっぱい。で、今夜現在未だ荷物は持って行くか否か?最終決断を待ち状態のまま。すでに修行の旅が始まっている。

極限の場所に身を置いて、一体どんな思いがこの私に訪れるのか?自分の原点に向かい合い、気づきや発見がある旅になればいいなぁ。今夜も夜遅いレッスンを終えて帰宅。パソコンに向かい、自分に向かい、そう願う夜。写真は上から新緑に癒された往路。緑!の茶葉。ゴームク。そしてタポバン(ネットから借用)

★最近読んだ本  「心」  姜 尚中 著

GW 真っ最中

巷ではGWに突入!長い人では10日間ものお休みがあるまさに黄金週間!が始まった。肌寒い毎日からやっと気温も上昇して、ぽかぽか陽気の晴天に恵まれたGW前半だった。さて、宮崎への旅後編。

学会二日目、ほぼ終了間近?の会場から一足早く退場させていただき、宮崎駅に行き、予約していたレンタカーに乗り込み、串間へ向かう。
宮崎の最南端に位置する串間は、父の仕事の関係で小学校6年から中学2年までの3年間を過ごした思い出の地。大人になって?訪れるのは今回で3度目。レンタカーで行くのは始めて。でもカーナビがあるから大丈夫!とナビに頼り切って、目的地串間市!で示されたルート1?を迷わず走行開始。ところがそのルートは高速利用ルートだった。で、乗らなくてもいい高速に乗っかってしまい、途中で慌てて降りて、なんのことかすっかり回り道をしてしまう。雨は降るし、暗くなるし、ハンドルを握る姉と何度も喧嘩?しながら、予定より30分以上遅れて真っ暗になった串間にたどり着いた。

こうして振り返ればそんな道のりが一番心に残っている。旅って、そんなもん。


姉の友人たちと一緒にイタリアンのお店でやや遅い夕食を食べる。メインはなんとアラのアクアパッツア。でかい!美味い!色彩的に緑色足りない!と思いつつ形よりも味!を実感。でもこのお店、イタリアンなのに座敷あり。イタリアンなのに焼酎あり。さっすが宮崎!


翌朝二日酔い気味の姉の友人に一宿一飯の礼をいい、串間で一番見たいと思っていた海へ行く。多分この海を中学生の私も見たんだろうなぁ・・・すでに消えてしまった記憶を無理やり引き寄せつつ穏やかな海に向かう。変わらない海を、あの頃からすっかり変わってしまった私が見つめる。またね!!次はいつ来れるかわからない町へお別れを言って、飫肥へ向かう。飫肥・・・初めて訪れる場所。


飫肥城は、天正16年(1588年)、豊臣秀吉の命で伊東家の居城として入城して以降、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を治めたという。明治6年(1873)には、飫肥城内の建物全てが取り壊され、昭和53年(1978)6月に城の顔と言える大手門が、飫肥杉を使って復元されたという。つわものどもは夢の後・・・・うっそうと茂る杉木立、苔むした城址に立っていると今と昔の風が交差するような不思議な感覚に捕らわれた。日本の近代外交の礎を築いた明治の外交宮、小村寿太郎の展示館を見学し、飫肥を後にした。


日南海岸をひた走り、お昼はこれまた姉の高校時代の友人のお店「ドライブイン大海」で海鮮丼をいただく。ウニ、イクラ、生海老、烏賊、鰹、帆立、鯛などいっぱいの魚介類と、なんと鶏南蛮が3個も入ってました!海鮮丼には魚の味噌汁がついてくるのですが、姉の友人のご好意により、なんと伊勢海老の味噌汁付き!だったのです。目の前に拡がる海を眺めながら、その幸を満喫した時間。お腹も心もいっぱいの幸せ時間でした。


更に車を走らせ、堀切峠の道の駅でお土産を購入し、宮崎駅へ向かう。出発点へ向かう道は、つまり旅の終わりへと向かう道。無事にレンタカー屋で車を返し、帰りの電車に乗る。


学んだこと、再会した人、そして場所、初めて出会った感動・・・・いっぱいいっぱいあった4日間だった。来年のヨーガ療法学会は岐阜で開かれるという。その日までどれだけ自分を磨き、成長させることができるか。この歳になっても学ぶことがあり、出会う感動があることに感謝しつつ、GW後半も変わらずの一歩一歩。

★最近読み始めた本  「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 村上 春樹